2021年もコロナ過ですが支援を継続していきます。

本年は釜石に関する情報発信で現地復興へ協力します。 

釜石南高校卒業生(後輩です)大滝詠一君

大滝詠一君は釜石南高校卒業で「釜石ふるさと大使」だった。
高校時代彼と一緒にバンドを組んでいた「佐々木諭(私の親戚)」によれば、「ふるさと納税」は釜石にしていた、と聞きました。

大滝詠一氏が第二の故郷と言う釜石の親戚や同級生の安否を震災後毎日探して連絡のついた人たち同士の安否を教えていた事を本人が語っています。
7:29秒~(震災時に同級生たちへ連絡を取った活動を話しています)

自分の事を言わない事で有名ですが、釜石の事を心配している音声が残っていました。

追悼・大瀧詠一さんの言葉2011年part1「振り返る気にならない」


彼が亡くなって、親戚の佐々木諭と話している時に「大滝君からハッピーエンド当時のテープが送られていた」ことを思い出し二人で想い出話をしました。
釜石の只越町に「レスト」という釜石の若者が集まる喫茶店がありました。
昭和37年当時だと思いますが、市役所職員の佐々木諭と自分もそこの常連で釣り好きなメンバーも多く集まって釜石の将来の事を話し合っていました。

そこで仕事終わりに彼と良く会っていたので、そのテープを元に公開をしようと話し合っていました。
ところが、佐々木諭は次の年に大滝君と同じように、急に亡くなってしまいました、まるで追いかけるような死に際でした。
残念ながら、幻のテープ公開を出来ませんが、釜石にいた当時何個かのテープを私に聴かせてくれました。
当時の私の音楽認識はエレキとフォークソングで満ち溢れこの音楽は何だ?
という認識でした。
それを理解していた分かっていた佐々木諭は、大滝君の親友となり高校生の時に一緒にバンドを組んでいた、「亡くなる一年前にようやく彼の曲を引けるようになった、と言い、また一緒に(私と)大滝君の曲を弾いてみよう」と、約束をしました。
しかし、それはかなわず、・・・・・・惜しい二人が亡くなったものだ。

佐々木諭が釜石高校の年代史へ寄稿したものはこちら
年代史へ寄稿 年代史2ページ目


子供のころからよく食べていた地元産の甲子柿はトロトロになるまで煙で燻します。
渋柿ですが、田舎にある母親の実家の農家の天井において、囲炉裏で薪をもやしその煙で熟成させます。
一冬熟した柿は見事にトロトロになり、手で持っても実が崩れて行くくらい柔らかい。





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